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お米の歴史について知ろう!日本に来たのはいつ?価値や食べ方の変遷は?

お米の歴史について知ろう!日本に来たのはいつ?価値や食べ方の変遷は?

毎日当たり前のように食べているお米ですが、そもそもお米とは誰が作り、いつから食べられるようになったのでしょうか。また日本にお米が伝わった経緯や時代背景など、日本の歴史とお米の関係性について詳しく知らないという人も多いはず。

そこで今回は、意外と知られていないお米の歴史について紹介します。日本人の食事に欠かせないお米には、一体どんな歴史があるのか、家庭や教育現場での食育に役立てたい人はぜひ参考にしてくださいね◎

お米はいつ、どこで生まれたの?

お米は今から6000年ほど前に、インドのアッサム地方で生まれたといわれています。それが、西南アジア、西アジア、アフリカへと広まり、日本のお隣の国である中国に伝わったのが約5000年前。

今では当たり前のように日本で食べられているお米ですが、実は熱帯性植物なので、本来日本には自生していません。お米はインドのアッサム地方で生まれた後、様々な国や地域を経て日本に渡ってきたのです。

お米と日本の歴史

ここからは、日本にお米が伝わった時代や経緯、日本における稲作の歴史について詳しく解説します。

日本で古くから主食として親しまれているお米は、その文化が確立するまでに多くの歴史的エピソードがあります。日本でお米を作り、食べられるようになるまでの歴史を知ることで、お米が私たちにとっていかに大切なものであるか深く理解することができますよ◎

日本に稲作が伝わったのは縄文時代

日本に稲作が伝わったのは、縄文時代だといわれています。福岡市の板付遺跡や、青森県の田舎館遺跡には水田の跡が残っており、縄文時代後期には稲作が始まっていたようです。

日本にお米が伝わった経緯は諸説ありますが、中国の江准(こうわい)地帯から、朝鮮半島南部を経て伝わった説が最も有力といわれています。他にも、長江(ちょうこう)下流部から直接九州に伝わったとする説や、中国南部から琉球列島を北上して南九州に伝わったとする説などがあります。

弥生時代には日本の稲作農業は完成されていた

弥生時代には、日本の稲作農業は完成されていたといわれています。弥生時代の農耕集落である静岡県の登呂遺跡からは、弥生水田が発見されています。

この弥生水田は杭などで補強され、畦(あぜ)できちんと区別されていました。用水路も整備されていたことから、弥生時代には稲作農業が完成し、盛んに行われていたようです。

お米にまつわる日本の歴史的エピソード

飛鳥時代には、国から国民に一定の田んぼを与え、現代でいう税金を「年貢(ねんぐ)」としてお米で納めていました。奈良時代には「墾田永年私財法」が制定され、自分で開墾した田んぼは永久に私有地として良いことになり公地公民制は崩壊します。この頃、貴族や寺院などのお金を持った人々が農民を雇い開墾させることで私有地を増やし、さらに権力を増強させたそうです。

税金がお米からお金での納付に変わったのは、明治時代です。豊作や凶作、米価の変動で政府の収入が左右されるのを改善するために「地租改正」が制定され、これにより政府は安定した現金収入を得ることが可能となりました。その後、昭和の戦時中には食糧不足に見舞われ、お米が国家管理となったこともありました。平成になるとお米の流通が自由化され、農家やJAはどこでも自由にお米を販売できるようになりました。

お米の価値と食べ方の変遷

今でこそ炊飯器で炊くのが当たり前なお米ですが、昔は今とは異なる方法で食べられていたようです。では、昔の人々はどのようにお米を食べていたのでしょうか。

ここでは、日本におけるお米の食文化や価値の変遷について詳しく見ていきましょう!

奈良時代まではお米を煮たり蒸したりして食べていた

弥生時代には、お米を煮たり蒸したりして食べていたといわれています。土器に水とお米を入れ、煮こんでおかゆにする方法や、蒸し器で蒸した「強飯(こわいい)」もよく食べられていました。

奈良時代の庶民の間では「黒米」という、うるち米が食べられており、時折アワやヒエなども混ぜていたようです。当時、白米は非常に高価で、身分の高い貴族しか食べられなかったようです。

平安末期からお米を「炊く」ようになった

平安末期からは、現代と同じようにお米を炊くようになりました。陶器や鉄の釜が普及したことで、お米を炊けるようになったのです。炊いたお米は、蒸した「強飯」に比べて柔らかく仕上がるため、「姫飯(ひめいい)」と呼ばれていました。

平安時代の貴族は、高坏(たかつき)という器にご飯を盛り、周りにたくさんのおかずを並べて食事を楽しんでいました。少量でも品数の多いおかずが良いとされ、今の日本の食文化にも通ずるものがあります。

戦時中はお米が何より貴重な食材だった

昭和の戦時中は、お米が何よりも貴重な食材でした。男性が戦争に駆り出されることで働き手が減り、農作物の収穫量が減ってしまったのです。さらに、軍隊で働く人々にお米を食べさせるため、政府への供出制度もありました。

不作の年でも、一定量のお米を政府に供出しなければならなかったため、供出後は農家でさえ満足のいくお米は残らなかったといわれています。家庭で食べられるお米の量はかなり制限され、戦時中のお米は贅沢品として扱われました。

現代のお米の生産量と消費量

日本のお米の生産量は年間781万6000トンで世界第10位、消費量は796万6000トンで世界第9位となっています。消費量が生産量を上回っていますが、1人あたりのお米の年間消費量は55.2kgで、アジア圏の中ではかなり少ない傾向にあります。

世界で最も多くお米を生産している国は中国で、生産量は年間1億4450万トンです。消費量も最も多く、年間1億4750万トンとなっています。

”国内屈指の米どころ”山形県のお米づくりの歴史

日本を代表するお米の名産地のひとつである山形県には、どのようなお米づくりの歴史があるのでしょうか。

山形県の中でも特に「米どころ」として有名な庄内地方では、8世紀頃からお米の栽培が始まっていたそうです。この地域で栽培されるお米は「庄内米」と呼ばれ、その品質の高さから豊臣秀吉の時代には御用米に選ばれるほどでした。

稲作が奨励されたことで、お米の一大産地となった庄内地域。そこで生まれたのが「亀の尾」というお米の品種です。亀の尾は多くの品種の交配母体とされ、現在のコシヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち、つや姫など美味しいお米のルーツとなっています。

そんな山形県を代表するブランド米「つや姫」は、粘り強くもっちりとした食感と豊かな甘みで人気を集めています。つや姫の味わいや旬などの特徴について詳しく知りたい人は、ぜひこちらもチェックしてください♪


お米を食べてJAさがえ西村山の挑戦を応援しよう!

さくらんぼや桃、りんごなどのフルーツをはじめ、日本で有数の「米どころ」としても知られる山形県さがえ西村山地区。豊かで寒暖差のある自然環境と生産者のたしかな技術によって、「さくらんぼの王様」といわれる佐藤錦など、四季折々の美味しい食べ物を全国にお届けしています。

そんなさがえ西村山地区に拠点を置き、山形県の中央エリアを管轄するJAさがえ西村山では、2023年より「環境にやさしい栽培技術」と「省力化に資する先端技術等」を取り入れた「グリーンな栽培体系」を目指し、新たな取り組みをスタートしています。

気候変動問題が世界中のイシューとなる中で、全国の生産者にはカーボンニュートラルの実現に向けて化学肥料の低減が求められています。(みどりの食糧システム戦略)

とはいえ、化学肥料を減らすと、収入減少の怖さがあり、生産者にとって大きな負担を強いる可能性があります。そこでJAさがえ西村山では、バイオスティミュラントという新しい農業資材に着目し、生産者の負担を軽減する、新しい栽培方法の開発に挑戦しています。

バイオスティミュラントは、植物に生理学的刺激を与えることで、環境ストレスを受けたために発揮されていない「農作物が本来持っている能力」を、最大限まで改善する資材として期待されている新しい農業用資材です。 農作物の品質や収量の向上や、栄養吸収率を高めることによる化学肥料使用量の低減などの効果をもたらします。
【引用元】バイオスティミュラント 活用による 脱炭素地域づくり協議会

特に、栽培過程で生じる「ゴミ」である食品残渣からバイオスティミュラントを生産することで、「食品から食品」を生む環境負荷の低い栽培を実現し、気候変動に負けない、持続可能な産地を目指しています。

現在、さがえ西村山地区では「さくらんぼ」「桃」「りんご」「米」「なす」の5品目でこの取り組みを実施しているそうです。ぜひ、気候変動問題に果敢に取り組む産地の商品を購入して応援していきましょう!